ペットロスの嫁さんを立ち直らせた死後の世界の話

先日、実家で飼っていた猫が死にまして、改めて“死”について考えさせられました。

19歳、人間で言ったら100歳近い大往生です。やっぱり家族を亡くすのはやっぱり寂しいものですね。

死んだらどこに行くんだろうか?とか、生まれ変わりはあるんだろうか?とか、また会えるんやろか?とか、今日はそんな話です。

この話は、以前、ペットロスに苦しんでいた嫁さんにした話で、この話をしてからみるみる元気になっていきました。

できるだけ論理的に話をしたいところですが、そうするとボリュームがトンデモナイことになりそうなので、割とふんわりとした話になっています。

「こいつが考える死後の世界こんな感じなんやな」っていう、軽い気持ちで読んでもらえると幸いです。

いつかまた会った時に

やっぱり親しい人が亡くなるのは寂しいですね。

もう会えない、声を聴くこともできなければ、触れることもできないと思うと、やっぱりどうしようもなく寂しく思います。

ですが、僕は「その人との関係が切れたわけじゃない」って思うんですよ。

よくある「心の中で生き続けるんだ……」っていうアレじゃないんですけど、会えなくてもずっと繋がりはあると思うんです。

なんというか、こんなことを言うとすごい誤解を招きそうなんですけど、極端に言うと「同じ現実を生きられない」っていうのが、僕にとっては「同じテレビを見られない」っていうのと同じ感覚なわけです。

極端に言うと、ですよ。

もちろん辛くないわけじゃないし、悲しくないわけでもないんですけど、いつかまた会った時に恥じるところのないように、胸を張っていたいと思うんです。

きっといつかまた会えます。同じ現実を生きられる時が来ると思っています。上辺や慰めじゃなくて、本気でそう思ってます。

死後の世界を信じているのか?

っていう話をすると「死後の世界があると信じているのか?」とか、「輪廻転生を信じているのか?」とか、だいたいそんな話になります。

あるかないかと言われたら、「ある」と答えるでしょうけれども、お釈迦様とか聖書が言っていることを手放しに信じているわけでもありません。

僕は、いわゆる「死後の世界」が誰かが説いたものそのまま存在しているとは思っていません。地獄とか、天国とかそういうの。

ですが、死は終わりじゃないと考えています。割と「目に見えないもの」を信じる性質です。

幽霊はいる!とかそういうことじゃなくて、例えば、“匂い”とかそうですよね。匂いは目には見えませんが、ハッキリ“ある”と感じられます。それは、嗅覚が備わっているからです。

人間の体には視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚、の五感が備わっていますが、その5つだけで世界の全てを知覚できるとは、どうしても思えないんですよね。

すごい身近なはずの紫外線とか見えないし。むしろ目に見えてるもの、感じられるものの方が少ないんじゃないかなーと。

死んだ後のことは分からない。でも「何も残らない」ってことは、絶対にないと思います。

死んだらどうなるのか?

体の機能が停止したら動くことができなくなります。生きている時に、体を動かしているのが心です。

“心”っていうと真っ先に感情がイメージされると思いますが、実は内臓の働きも“心”の仕事です。その働きが無意識化で行われているので、勝手に動いているように勘違いしがちですが、僕らの内臓は、僕らが“心”と呼ぶ力によって動いています。

死ぬと“心”の機能も停止するので、体は形を保てなくなります。腐って、土になって、自然の中で再利用される形になるんですね。

ここで疑問に思うのは、“心”って何で動いてんの?ってことです。

物理学の法則に則ると、この世の全ての物はエネルギーなしでは動けません。

エネルギーとは:物理学的な仕事に換算しうる量の総称。位置・運動・熱・光・電磁気など。

google

生き物に限らず、動くには何かしらのエネルギーが必要になります。石が右から左に移動するには、相応の力が必要です。

さて、僕らの“心”は、何をエネルギーにして動いているんでしょうか?

科学的には、「筋肉は脳からの電気信号で動く」と言いますが、それはエネルギーを電気信号に変換する神経機能の働きであって、根源ではないはずです。

その、変換する前のエネルギーってどこから来てるの?ってことです。電気信号を発するのにも、何かしらのエネルギーが必要じゃないですか。

僕はこの根源が人が神と、あるいは宇宙と呼んでいるものなんだろうなーと想像するわけですが、とにかく何かしらの根源があるはずなんですよ。

じゃないとこの世界が成り立たなくなるので。

まぁその根源の正体を考えるのは哲学者や仏門の偉い人に任せるとして、重要なのは「“心”がその根源のエネルギーと何かしらの繋がりがあるらしい」ということです。

世界は“心”で成り立っている

もし、“心”が根源のエネルギーを物質世界に干渉させるためのものと考えてみるとどうでしょう。

間をぶっこ抜いていきなり極論ですが、人が人の形をしているのも、植物が植物の形をしているのも、石が石であることもまた、“心”を通じた根源たるエネルギーの力の作用なのだと考えられないでしょうか。

なんかどこぞの魔術師が言ってそうなことを言ってますけど、フィクションでもなんでもなく、割と真面目です。

そして、その“根源のエネルギー”は、間違いなくある種の指向性を持っています。

なぜならば、そうでなければこの世の全てのものは“意志”を持てず、そもそも自然界のシステムが成り立たないからです。

だって、もし世界が無為に、偶然に、野放図に放たれた力から成り立っているとすれば、僕ら生物が持っている「楽しいことを楽しいと感じられる力」や「辛いことを辛いと感じられる力」は、必要ないはずです。

少し話がややこしくなってきましたね。

つまり何が言いたいかっていうと、「僕らは“根源のエネルギー”の意志を物質世界にバイパスできる存在だ」ってことです。それも、はっきりとした意志を持って。

生まれ変わりはあると思う

で、やっと本題なんですけれども、死ぬと体は動かなくなります。

それは、「“根源のエネルギー”をバイパスできなくなった」ということです。役目を終えた体は分解され、自然の世界に散っていきます。

でも、また人は生まれます。毎日生まれています。“心”がバイパスした“根源のエネルギー”を使って、お母さんの体の中で作られています。

ところで、“心”には「慣れる」という機能があります。あれだけシステマティックに世界を構成している自然が、この機能を利用しないはずがありません。

石の形を成していた“心”が、明日には人間になれるということはないわけです。

一度、人の形をバイパスした“心”は、人の形を成すための“心”です。そして、感じる、考える、動かす、そうした機能を担当していた“心”もまた、同じ様に同じ役割を持って体に宿ります。

一体どこからやってきて、どういうふうに宿るのかは分かりませんが、多分、今の僕の“心”も、この体ではない他の体を使って、いつかの時代を生きていたことがあるんだろうと思います。

もし、“慣れる”という機能を使わずに人が作れるのだとしたら、そもそも時間をかけて進化する必要がありませんからね。

これが、僕が生まれ変わりを信じる理由のひとつです。

繋がりは続いていく

そういう自分を形成している“心の集り”を、多分、僕らは“魂”と呼んでいます。

魂は、お互いに影響し合いながら、根源のエネルギーを変換しつつ伝え合っていきます。そうして、複雑な人間関係ができていきます。

その繋がりは、お互いを引き寄せ合って、ある種のグループを形成していきます。

そう考えると、前世で関わりがあった人達との関係が続いていくのも、ごく自然なことのように思えるんです。

だから、多分また会えると思うんですよ。

いつかまた会った時に

死んでしまうと、言葉や行動で自分の気持ちを伝えることができなくなります。でも、僕は繋がりまで切れてしまったわけではないと思っています。

もし、いつかまた体を使って気持ちを伝え合える日が来た時に、楽しい気持ちやホッと心が安らぐ気持ちだったり、湧き出る充足感だったり、そういうものをもっとたくさん伝えることができるようになっていたいなと。

もちろん、悲しくないわけじゃないし、寂しくないわけじゃありません。でも、大好きな人のそういう姿を見るのって辛いじゃないですか。

だから、思いっきり悲しんだ後は、いつかまた会った時に恥じるところのないように、胸を張っていたいと思うんです。

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